和の暮らし・昔の暮らし

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模様をおかない、黒以外の一色染めのきものを色無地と呼び、それを略して無地とも呼びます。

 近年着物に距離を置くようになり、色無地についての理解が曖昧になるに従ってそれを、色のない反物、色のない着物と解釈するようになりました。、
そうなると色無地の呼び名に矛盾を抱く人が増えて、色があるのに色無地と呼ぶことの疑問をきたす事となります。

 まず、無地について説明しますと、本来は色染めによって素地を消し去った生地を指すのです。
小袖形式といわれる今日の着物は、元は下着でした。それを上着として着用するようになるのは鎌倉時代で、それが一般化してきたのは室町時代になってからです。下着としての性質上、上着になった当初は白衣でしたが、やがて色こそ出といって色染めのものが流行しだしました。

 色小袖の出現によって、白生地に色なり模様なりを染めた物を「無地」と呼ぶようになりました。地を無くすという意味です。これを「地無し小袖」、「地無し模様」とよび、一色染めを「色無地」、模様染めを「柄無地」と呼んできました。


もう一つの色無地
 普通、色無地と言えば模様をおかない一色染めのことですが、同じ一色染めでも、赤系統の色で染めた物を「色無地」と言い、青系統で染めた物は、単に「無地」と呼び分ける慣わしもありました。
 これは、結婚その他の吉事の着物と、死亡その他の凶事の着物を、色で分けた風習によるのです。
 赤は命の色であることにおいて、神話の時代から吉祥の色とされてきました。
赤を中心にした暖色系を「色」といい、それの一色染めを「色無地」と呼んで吉事に着用しました。 青を中心とした寒色系の一色染めは単に「無地」と呼んで凶事に着用してきました。

「色無地」と「無地」の説明がつかないままに、その伝統の風習は滅びました。

染め色にこめた祈り
非日常はもとより、日常にあっても、着物とのかかわりには幸いを請い願う祈りが込められてきました。「色無地」と「無地」の染め分けもその一環です。
 しかし実際には、身分によって着物の色は制約されてきた関係上、それはおおむね精神的な伝統にとどまり、誰でもが表だって行えるというものではありませんでした。

 「いろ」である命の赤への民衆の祈りは、日常的には、せいぜい、赤い腰巻や赤い褌、髷の根元に掛ける赤い小布の手絡など、地味な部分で行われてきたのです。

 これとは別に、聖徳太子の頃に日本に伝わった陰陽五行思想の赤も、めでたい色とされてきました。それによれば、赤は火及び鳥や蝶といった羽類に還元され、いずれも上方志向とみなされることから、縁起のよい吉祥色とされてきたのです。
 江戸時代の一般庶民の着物は藍染に限られ、ほんのわずか、茶色と藍色が許されていました。藍(青緑)は「無地」で、茶は「色無地」です。鼠色は紫みを帯びた間色ですから、吉凶の両方にまたがって用いました。


   年中行事の由来
鏡餅 (正月と持ちの役割)


白い紙の上に大小ふたつの餅を重ね、その上にだいだいを乗せる、あるいは昆布や伊勢海老がこれに加わる――いわゆる鏡餅も、お正月に欠かせない供物です。
鏡餅の名は、その形を昔の丸井金属鏡からとったからだ、鏡は理想のこころを写し、魂を表現するご神体だから、鏡餅は浄化された、めでたい餅なのだ――という解釈がなされますが、もともとは飾り餅の転化された言葉なのです。

餅は当然、米から作るのですが、日本の農耕社会の成立とともにあったかどうかは別として、携帯食として古くから知られてきました。餅=もちの名は、持って歩くところから、これを「持ちぃひ」と表現したところから始まります。

携帯食としての餅は、二枚重ねて、この間におかずをはさみ、現在のサンドウィッチのようにして食べられました。鏡餅を重ねて飾り餅にするのは、この習慣が後々まで残ったものと考えられます。携帯食としての持ちは、のちになると神の召すものと考えられるようになり、お祭りになくてはならないものとなります。

お正月は、本来、年神が降臨する期間です。そのために人々は精進するのですが、その祭りの餅の役割は重要です。ひとつには年神に供するものとしての鏡餅、もう一つは、人々が正月三が日、すべての労働を休んで物忌みするための保存食なのです。

鏡餅には、ほかに歯固めという重要な意味が含まれています。歯は、生命にとって非常に大切なものです。歯が丈夫ということは、なんでも食べられる、したがって健康だということです。
そこで一年の始めに、歯の丈夫を祈っておこなわれる行事を歯固めといいます。つまり正月明けの11日に行われる鏡開きが、それです。本来は固くなった鏡餅をツチで砕くのですが、砕くという言葉は縁起が悪いので、鏡「開き」というふうになりました。
そして砕かれたお餅を雑煮にしたり、お汁粉にしたりして食べるのです。



  年中行事の由来
お正月行事(おせち料理・若水・屠蘇・お年玉の起源)


節供とは元来、神にお供えする供物のことでしたが、いつの頃からか、節日のことを節供というようになりました

節供に作る料理を「節料理」あるいは「おせち料理」といいます。現在では正月説料理のことを指しておせちといいますが、本来、節日に作る料理はみなおせちなのです。

正月のおせち料理は正月期間、神を迎えるために一切の家事労働を休むための保存食です。またこれか春を迎えるために体力をつけようという知恵の産物でもあります。餅もおせち料理と同じ発想からお正月に食べられます。餅を雑煮にし、重箱に詰めたおせち料理を食べて精進するわけです。のちには婦人を家事労働から解放するための保存食という考え方も出てきます。

さて、おせち料理の内容は、栄養補給の面からみれば、なかなか捨てがたいものがあります。蛋白、脂肪、炭水化物、ミネラルはもちろんのこと、薬品的効果のあるものも入っています。特にゴボウは、消化は良くないが、有毒物を吸収、排泄する作用があります。またコンニャクからはマンナンを吸収します。

おせち料理は、食べ物が豊富な今日では、おいしくないという理由であまり好まれませんが、農耕社会が生み出した、正月休養と栄養補給のための知恵であったわけです。

また、屠蘇も正月の飲み物としては欠かせないものです。お屠蘇は薬草の入った酒のことで、中国にその起源が求められます。名前の由来は鬼気を屠絶し、人魂を蘇生させるところから来たといわれます。

日本では平安年間からその週間が始まったことが認められますが、一般に受け入れられたのは江戸時代のことです。また正月には若水を飲む習慣もあります。若水とは元来立春の行事でしたが、いつしか元旦の行事に代わってしまいました。若水は、新年の始めに、新しい水を汲んで飲み、生気を蘇生させる役割を果たします。水は井戸の水で構いませんが、これを汲むのは、年男の仕事です。日本の元旦は、朝起きるとまず、若水を組んできて飲み、神への礼拝を済ませてから屠蘇を飲み、それから雑煮とおせち料理を食べるところから始まります。

また、現代では子供たちにとって、お年玉の習慣は、お正月最高の喜びとなっています。元来、お年玉はお年魂と言って、神からいただく、新しい魂ということです。転じて、人間同士で魂を生産する言葉を取り交わしたりするようになり、現在では圧倒的に金銭が多くなりました。
「むかしの洗濯」

 衣類に付いた汚れを落とすだけが今日の選択ですが、むかしの洗濯は、衣類に付いた邪気をはらうために行われました。
宗教的行事に参加する時には、ことに念入りに衣類の洗濯をし、体も沐浴して清浄に勤めました。

 むかしの洗濯は病気は災害を起こす悪気を払う信仰的色彩の強いもので、従って、家具はもとより、牛馬などの家畜までもが洗濯の対象とされていました。
そんなわけで洗濯にはいくつかの決まりがありました。

 新年の洗い初めを1月11日と決め、まず年男の肌着を洗い、それから他の人の物を洗うというところもありました。
 また、彼岸、盆、祭りの日には洗濯をしないものとされていました。
毎月の一日、十五日、二十八日には、浮遊する霊が干し物に取り付くから、洗濯をしてはならないという習わしもありました。

 このようなことから、着物は着ることだけを主体的な目的としたものではなく、生活の安全を図るための宗教的呪物として、絶対に欠くことのできないものであることを、如実に知ることが出来ます。

 日頃の苦労から、開放されることを命の洗濯と言いますが、これの根も案外こんなところにあるのかも知れません。



「続・むかしの洗濯」

 いちがいに洗濯といっても、石鹸などの洗剤というものはなく、しかも洗濯機など夢のまた夢の時代の洗濯は、それはたいそう難儀なものでした。
 石鹸が洗剤として一般に使用されるようになったのは明治十年頃からで、電気洗濯機が家庭に普及し始めたのは昭和三十年頃のことです。

 サイカチの莢(さや)や、ムクロジの果皮の煎汁、米糟、米のとぎ汁、それに灰汁(あく)などを石鹸の代用として来ました。
サイカチ、ムクロジの果皮にはサポニンという成分が含まれていて、これが水に溶解すると泡が生じます。それで汚れを洗い落とすのです。
 灰を水に浸してとった上澄みの灰汁が含むアルカリ成分が、布の汚れを落とす働きをします。衣類の洗濯だけでなく、これで洗髪もしました。

 衣類のうち、麻や木綿の単衣のものは、そのまま丸洗いすることが多く、これをガクアライと呼ぶことがありました。単衣でも絹のものや袷ものは解き洗いをしました。

 人の性格や容姿などにいやみとかあくどさがなく、精錬されていることを灰汁抜けしているとか、垢抜けしているといいますが、これも洗濯と縁が深いのです
「江戸時代の衣更」

 衣更。更衣とも。衣替えとも読む。更衣は平安時代の女官の位でもあります。
天皇の寝所に侍した女官で、天皇の御衣を着せ替える務めをしました。
 
江戸時代には、更衣の風習は貴族社会から、武家、民間へと波及し、それのありようは「俚言集覧」という古い辞書に詳しく載っています。

「江戸の御定めは、四月朔日より五月四日まで袷小袖。五月五日より八月晦日まで単衣帷子麻布なり。九月朔日より同月八日袷小袖、九月九日より三月晦日までを綿入れ小袖なり」と記述されています。
 
この更衣の定めでは、五月五日の端午の節句と、三月三日の桃の節句が、衣服の更改と深くかかわっていることが特筆されており、季候に準じての衣生活の更改は、衣更とは直接関係なかったことが伺えます。
 
又この時代に、袷、単衣といった季節ごとの衣服を所持していた人は、武家を含めても幾人もいなかったのが実状です。
 まして、四月朔日より五月四日までの袷小袖では暑すぎます。当時は陰暦でしたから、現在では四月始めは五月半ばになります。

 秋の袷も九月一日から八日までの八日間では、短期すぎで不自然です。


「季節祝いの更衣」

 今日の衣替えは、六月一日から夏服(夏物)、十月一日から冬服(冬物)に改めることが通例ですが、これは明治以降、制服を着用する人々の更衣にも応用されてきました。
 
平安時代には、四月一日から夏装束に、十月一日からは冬装束に改めることが、年中行事のひとつとして行われてきました。 
 
更衣は、四季の変化に応じて、情緒的かつ実利的な快適を求めて始まった宗教的信仰の風習の側面とがあります。
 
江戸時代の「
俚言集覧」の記述にある、端午の節句、重陽の節句を区切りとして衣服を改めて祝う風習は、宗教的季節行事であることを示す衣更ですが、現在では消滅してしまいました。
 
四季の変化を楽しむ衣更は衣服のみにとどまらず、家具調度までも季節に応じて改めました。これも衣更といいます。
 しかしそれも生活様式の洋風化と、冷暖房設備の普及に伴い、伝統の情緒性と季節感が薄れてしまい、新しい季節を迎える喜びを衣更によって味わう雰囲気は極端に乏しくなりました。

 衣更に関連して、部屋いっぱいのきものを広げた虫干しも、今では懐かしい風景です
縞文様としめ縄

2種類以上の色糸を、経、緯(よこ)、格子など、平行する線に、織るなり、染めるなりいた文様を「シマ」と呼ぶようになったのは、中世以降のことです。それまでは「筋」と呼んでいました。
中国から絹織物を中心とした「間道」が輸入され、インドや東南アジアから筋模様の木綿織物が渡来するようになり、これを「島物」「島布」呼び、略して「島」と読んだとしています。「島」は後に「縞」の字を当てるようになりました。
「縞」とは本来は織目の細かい絹、白色の絹の意であって、筋模様とは何の関係もありません。縞を筋模様の意に用いるのは日本独自のものです。
筋模様を「間道」と呼ぶのは、まじる、まざる意の「間」と、筋を表す「道」とによります。


「シマ」の語源は「シメ」

「シマ」の語源は「シメ」に関係あり、古代の人は、そのシメの内には魂があると考えていました。
シマはシメナワを張り渡して囲った地域で、ヤクザが自分たちの占有地域を、シマあるいは縄張りと呼ぶのはそのためです。
生まれ育った故郷もシマであり、村内を島内と呼ぶ地域があります。島は、周りが水によって囲まれた小陸地に限られてはいないのです。
島内と呼ぶところには、多恵多幸をもたらす和魂(にきたま)が満たされているとされてきた、シメの内の意味がこめられてきました。
織物にしろ染物にしろ、縞柄の着物で包んだ内側はシメに囲まれた島内で、そこには邪気を払い、災難を防いでの、安全が神話の時代から約束されてきました。


美意識の根底に潜む祈り

きものは衣服の総称ではなく、洋服と対立した和服という意味を持つようになりました。そのことが、着物の反近代的な美意識を際立たせることとなり、ファッションきものなる概念を構築しました。
その結果、美意識を伝統の全てと勘違いし、美意識の根底にある肝心の祈りの伝統を脱落させてしまいました。
それが縞柄に限らず、模様なり、色なり、形なり、ただ美意識だけできものが伝統文化ととなることはありえないのです。きもの文化の絶滅は、伝統の思想を喪失したからに外なりません。

神仏に安全を祈願するように、きものにも安全を祈りました。それは個人を超越した、社会的な命題でもありました。
きものに染める色、着物に描く模様、そしてきものの形。そのいずれもが厳粛な祈りの文化です。
江戸も末の頃になると、縞柄のきものは大衆の物となりますが、それでも、これまでの神聖性を喪失することはありませんでした。格の高いきものとして、茶席で女性に縞柄の着物を許したのはそのためと考えられます。
縞柄の伝統性は「シメ」と「いき」の習合のなる物で、それのいずれかを欠くことがあれば、伝統文化ではないのです。

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★ Dに続き 帯談義 ★

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神話時代の反物

洋服の布は、衣服の用布として織りました。和服の布は、はじめは呪物として織ったものです。それを二次的に衣服に用い、今日の着物に」至りました。
洋服文化と和服文化の根本的な違いは。織布の神聖性が核となって、着物の文化の伝統が守られてきたのです。
神話では、最高神のアマテラスが忌服屋(いみはたや)にこもって神聖な布を織っていることになっています。
忌服屋は女だけの聖なるところでした。スサノオはそこを覗いて仮す稼すばかりか、馬の皮をはいで投げ込むなどの乱暴をはたらいて、聖域を侵しました。それを怒ったアマテラスが、天の岩戸に入り隠れたことで、世の中は真っ暗となり、さまざまな災いが起こったと語られています。

反物は太古の昔から神聖な布として織継ぎ、それを威服に用いてきたのです。
着物の文化は神聖な反物を身にまとう宗教的行為に始まった物で、それによって、国家の安全、身の安全を祈ってきたのです。
きものを着飾るという文化は、単におしゃれのためだけではなく、神聖な反物とのかかわりを根底に据えた、儀式を含みます。
反物の神聖性が、着物文化の伝統を不動にしてきました。

反物は神様

反物は幡神で、霊的動物である蛇を象徴する物です。蛇信仰は古代から行われ、、今日でも日本全土に祀られている神は、圧倒的に蛇神です。その蛇神を斎き祀る蛇巫女を中心に展開するのが、日本原始の祭りです。
反物が風にヒラヒラ翻る姿は蛇がヒラヒラと爬行する姿で蛇神のさらなる慰霊を祈るための物です。
古代の人々はからだをヒラヒラさせて行動する蛇に、魂の節雛働きであるところの、霊力の活動する姿を見てきました。
反物を織ることも、反物を衣服に縫うことも、衣服を身にまとうことも、脱いだ後の諸作法も、旗神信仰のもとに行われてきたのです。。そのことが、着物の伝統の礎となりました。

反物

反物を着物に仕立てる裁縫は、ついこの間まで、神事に準じて行われてきました。そのために、忌み(いみびー神に仕えるため、けがれを避けて慎むべき日)には、反物を断つこと、針を持つことは絶対にしませんでした。
反物を断つときは日を慎重に選び、布の上に洗米と鰹節の他に裁縫道具を供え、裁ち祝いをした後に、仕事にかかりました。
反物は端切れれといえども、粗末に扱ったり、捨てたりすることは決してしませんでした。反物が幡神だからです。

★ 八掛衣服の形 ★

「羽織の歴史」

女子の羽織姿を近頃トンと見かけなくなりました。
羽を織ると当て字して羽織。よくよく考えてみると不思議な呼び名です。羽といえばもちろん、高く飛ぶ、遠くへ飛ぶ鳥や、蝶、トンボを思い浮かべます。それは、羽を持たない人間の窮極の羨望でもあります。

「羽が生えて飛ぶ」といえば、商品が非常によく売れていることをいい、「羽をのばす」といえば、抑圧された状態から解放されて自由になり、自分の思い通りになることです。

羽織は、そのような、羽に寄せる重いから生まれた文化であることが想像され、天女の羽衣と一脈通じる衣服であるとも考えられます
羽織が一般に用いられるようになったのは、安土・桃山時代からです。

一般の羽織は、当初は正式な衣服ではなく、閑居の際のくつろぎ着で、客との対応には脱ぐことになっていました。

羽織が男子の正装となるのは江戸時代からです。裕福な町人の間に流行しだしてからは富人の象徴となり、やがては正装となって家紋をつけることとなりました。

女子の羽織は、江戸時代の深川芸者が着るようになったのが始まりとされています。


「羽織についての諸説」

服折、端折、反折と書いてハオリと読ませるように、長着の端を折って着たことから、羽織と言う衣服及び名称が生まれたとする説、あるいは、短着を放り着たハフリから、羽織の名称が生まれたといった説があります。

羽織の形についても、道服、胴服、十徳などから発達した物とする説があり、いずれについても定説はないようです。

このほかに、陣羽織を起源とする説もあります。陣羽織は室町時代から江戸時代にかけて、武士が陣中で着たもので、羽織と言う名称としてはもっとも古いところから、現在の羽織の起源とされています。

羽織という衣服は、初期には、服折、端折、反折の字が当てられたように、動詞の名詞化であることからすれば、羽織という字も、羽として織るという動詞から派生した名詞であると考えるのが妥当なところです。

羽の衣服ですぐ思い浮かぶのは羽衣です。羽衣は天女のもので、天に昇る魔法の力があります。羽衣があって地上と天界を自由に往来できる天女です。その羽衣の魔力にあやかろうとして羽織を考案し、それは江戸時代の町人には縁起物でした。

羽織を男だけの物と定め、長い間女に禁じたのはそのためです。

「和の暮らし」 と題して昔の暮らし面白百貨こぼれ話特集 E!!

★ 着物1枚 帯3本 ★
★ 幡神(はたかみ)信仰ときもの ★

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「注連縄(しめなわ)を帯びる」

帯の始まりが裄紐や組紐といった細幅の紐帯であったのは周知のことです。それを衣服の外に結ぶのではなく、内に結んで巻き垂らしていました。
この紐帯は衣服を合わせまとめるためのものではなく、邪気の進入を阻止する呪力をもつとする、しめ縄を帯びるものです


しめ縄は漢字では、注連縄、七五三縄、標縄と表します。しめ縄の働きを分けての表記です。他に風の呪力形にした縄も、しめ縄に準じた働きをしました。
人間だけに限らず天地万物全ての生命を阻害するあらゆる要因を排除し、それらの生命に活力をもたらすのが注連縄の主なはたらきです。

その縄を紐の形にして身に帯びたのが、注連縄帯です。したがって、衣服のうちに巻いて結んだのです。


「七五三縄(しめなわ)を帯びる」

農業主体で生活を形成していら時代に、季節の順当な推移は国家的な命題でした。
そこで、それの推移を自然に任せるだけではなく、人間の側からも積極的に移り変わりの手助けをしました。

内実は伴わないまでも、今でもいたるところで七五三縄を見かけるのはそのためです。生活の場に張りめぐらして、季節の順当な推移を促すものです。
身体にも七五三縄を帯びて、人間の側からもめぐる季節の平穏を促し、身体の順調な人生をも願うのが、七五三縄帯です。

季節の先取りを装いの美意識とするのが着物ですが、それは装いというカテゴリーの問題ではなく、自然を相手に生きる人たちの精一杯の祈りが、そこに秘められているのです。しかもそのことが、今日の窮状をすくう力となる伝統性でもあります。美意識だけを伝統文化とはしないのです。

七五三縄帯は、年齢に順当な人生の通過を願う物でもありました。
「帯解き」「紐解き」の名目で行う子供の帯祝いも、厄年で贈られ、また本人が求める帯祝いも、天行健の呪力にあやかる七五三縄帯です。


「風を形にして帯びる」

長い帯、細長い紐、それに反物を風に見立て、そこに潜む克服と到達の呪力を生活のいたるところに取り込みました。反物を縫った着物、幾重にも巻く帯、それは服飾の以前に呪物です。

つい最近まで、男から女へ渡す結納目録の冒頭に、「帯」「筋」と書き入れたものです。
婚姻で帯が極めて重要な役割を担うことを示すものですが、帯についての理解を欠くようになって、結納目録そのものまでもが消滅捨てしまいました。

婚姻の取り決めで、男の側から女の側に送るのは標縄帯です。標縄は占有のしるしです。
女に占有のしるしである標縄を帯びさせることで、他の男に介入される事を防ぐのです。それが結納で贈る帯の主な目的です。

その結納の標縄帯は、注連縄帯、七五三縄帯を兼ねていて、行く末の仕合せをも願う物でした。
結納の「ユイ」は、他人の自由を排除するとともに、他の介入を排除する意味を持つのです。
★ きものの色・色・ ★
「前帯と後帯」

帯を前のしめ結ぶのが「前帯」で、後にしめ結ぶのが「後帯」です。
前帯姿に触れることは全くなくなり、後帯が当たり前の今日では、そんな風俗があったことすら、忘れられています。
ごくまれに芝居や映画などで前帯姿に出会って、何気なしに意にとめることはあっても、それを深く検索するほどの関心を寄せるまでにはいたりません。
前帯と後帯、その風俗の変遷にこそ、着物文化の真実があり、魅力が潜み隠れているのです。
後帯の流行は、江戸時代も元禄にいたってのことで、あたかも、町人を筆頭に被支配階級の庶民が、支配階級の武家に取って代わりだした時代です。衣風俗も庶民の掌中に帰するところとなりました。
女帯は、まず娘が前帯から後帯にかわりはじめ、一般の女性はしばらくは前帯のままだったもようです。その娘も成長するとまた、前帯に戻りました。
それまでの細幅帯が広幅帯に変わったことで、前帯の結び目が動作の邪魔になることを、後帯への後帯への変遷理由としているようですが、前帯の風俗は広幅帯になってからも、儀礼的要素で伝承されてきました。。嫁に行くときに帯を前に結ぶとか、嫁を取ると姑が前帯になるとか、夫死なれた妻が三日間前帯にする風習は、近年までいたるところで行われてきました。


「帯結びと社会秩序」

妊婦が安産を願っての腹帯。それまでの付け帯から帯に変わる、女児紐落としとか帯解き戸胃うなの帯祝い。祭りの日に女性が帯を肩にかけたり
して参拝する帯持ちの儀式。結納や厄年で贈る帯祝い。
これらのほとんどが今では廃れてしまいましたが、帯にまつわる数々の習俗に思いをめぐらすと、それの歴史的根源がはるかに遠く、しかも深いことに辿りつき、ただただ驚きます。帯は決して装飾のみに限られた文化ではないのです。



「花柳界と後家の前帯」

夫に死なれた妻が数日間前帯を結ぶところもあって、これを後家帯と言いました。喪主の妻が前帯になる風習もありました。
花柳界の前帯風俗も多分に陰陽の秩序に関係があります。
これら帯の習俗は、帯の呪物製と、陰陽思想による秩序づけによって行われ、それにより集団生活の安寧を保ってきました。
未婚女性は「陽」で後帯、既婚女性は「陰」で前帯といった考えもありました。そのことが、後帯の流行はいち早く未婚女性のものとなった模様です。それでも十代の末には前帯になりました。
一般女性の前帯の風は明治の半ばまで行われましたが、但し、六十歳以上の老女に限られていました。

和の暮らし」 と題して昔の暮らし面白百貨こぼれ話特集 B!!

「和の暮らし」 と題して昔の暮らし面白百貨こぼれ話特集 C!!

★ 縞と島の縄張り ★